安居島(あいじま)
開拓者により栄えた島で、手作業の上質な『天然ひじき』
安居島は北条市に属し、安居・小安居の二島からなります。安居島の東西1.2㎞・南北0.2㎞という細長い島の南側に、港と集落が集まり20余名の方が生活されています。かつての古い町並みが残り、今も残る昔ながらの景観ときれいな海は穏やかな時間で島を包み込みます。
島では手摘み天然ひじきをはじめとした海藻や魚介類が豊富で、手作りの野菜など旬のものを収穫しています。特産である天然ひじきは、全て手作業で収穫・選別されることにより、粒が揃った上質な磯の香りと濃厚で奥深い味わいとなります。
島の歴史を語る足あとが多く残り、安居島の開祖といわれる「金左衛門の開祖の碑」、恋人を待ち続けた愛の伝説が残る「みどりの墓」、1821年に郡代官広橋修が港を築く為に祀った観音像、島の中央にある菅原道真を祀った天満神社、無人島の時に漂流で亡くなった人が祀られているとされる「姫坂神社」など、島人により大切に守られています。そして手付かずの自然は、『かつて』という時の流れを守り続けたかのように昔の姿のまま残っています。尾根伝いに歩いて行くと約1時間で島めぐりができ、人の手が入っていない砂浜が広がり、そこから見える広島県呉市の下蒲刈島(しもかまがりじま)など、穏やかな景色が広がります。
江戸中期頃まで無人島だった安居島は、1817年に大内金左衛門ら開拓者が入植したことに始まります。当時、入会権をめぐり安芸国及び大洲藩・松山藩との間で争いが絶えませんでしたが、文化年間(1804~1817)風早代官広橋太郎により風早群難波村の草刈場として松山藩領有地となり解決しました。大内金左衛門らが最初に手掛けた港の整備は、斎灘(いつきなだ)の漁場に近いことや潮待ち・風待ち島(潮流れの向きが変わり、船の航行に適した潮を待つこと)として、また様々な船舶が立ち寄るようになり、安居島発展の礎を築くことになりました。入植後は弓削村や北条村から人々が移住し、嘉永6年には26戸数と増え、明治8年に愛媛県第5大区第11小区安居島小学校が創建されました。このように人が増える中、遊郭の最盛期であった明治20年頃には道後湯之町や三津浜と共に県内三大遊郭地となり、各家に2~3名づつ遊女をかかえるほど賑わったという歴史があります。しかしながら昭和5年の590人をピークに、昭和30年より人口は減少し現在に至ります。伝統的産業である海運業の継続が難しいことが大きな要因であり、多くの壮青年層が島を離れましたが、移住先の北条市で海運業を営んでいる人が多く海との関係が深いことが伺えます。
かつては、阿似島・合島・相島等と表記が様々でありましたが、松山藩の領地となった際に「人々が安心して住むことのできる島」として『安居島』となったようです。