睦月島(むづきじま)
島でお遍路巡り「島四国八十八ヶ所」と「西国三十三ヶ寺」を味わう
瀬戸内海の西部の中心近くにあり、江戸時代から現在まで、島の周辺は瀬戸内海の中心海運ルートとして利用されています。港近くに寄り集まるように集落、東海岸には「長屋門」と呼ばれる立派な門構えの家が並び、かつて島で栄えた行商の面影が濃く残っています。
島の東西にある2つの山を”8の字”に回る「睦月のスカイライン」からの眺めは絶景であり、西には約9kmの島四国八十八ヶ所、東には約7kmの西国三十三ヶ寺があります。その島四国を締めくくる札所『玉善寺』には、樹齢300年以上と言われる周囲7mの楠木があり、幹が二つに分かれていることから『夫婦楠(めおとぐす)』と言われています。他にも多くの見どころがあり、歩いて渡ることができる「梅の子島」や三女神が祀られている「當田八幡神社」、書家・三輪田米山の「孳孳為善」の書がある注蓮石などがあります。
島の歴史は古く、縄文・弥生時代の土器片も発見されていますが、本格的な開拓は11世紀頃に忽那氏一族によって行われました。しかし漁業・農業共に周囲の島々が豊かなこともあり、生活の支えとなるものがあまりなかったようです。
島の本格的な発展は明治以降であり、行商によるものでした。「睦月の縞売り」と呼ばれた反物行商として全国に知られ、睦月島の発展と影響を与えたと言われています。江戸時代に「潮待ち」「風待ち」の避難場として利用していた船舶に、食料品や薪及び手織りの反物などを売る「沖売り」が増えたことが行商の始まりでした。二グロ染め(おはぐろのふしで染めた黒の織物)を含めた手織り反物が、『縞模様』であることから「縞売り」と呼ばれ、全国にその足跡を残しました。
3月と9月からの4ヶ月間行商を行い、次の行商に向けて商品の仕入れや農作業の手伝いなどをしながら家族と共に過ごすという行商形態でした。しかし時代の流れ(戦争)と共に行商形態は終息を迎え、瀬戸内の温かい気候に合うみかん栽培に力を入れ始め、現在でもみかん・伊予柑・レモンなどの柑橘栽培が盛んです。