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中島 歴史・旧跡|自然・公園

中島

忽那水軍の歴史を濃く残すロマン溢れる中島

忽那諸島の最大の島・中島は、柑橘の花香る島として全国的にも有数の柑橘産地として知られています。
愛媛県松山市の高浜港から高速船で約30分、フェリーで約1時間弱の距離にあり、東線(大浦港)と西線(神浦港・西中港)があります。東中島・西中島の2つに大きく分けられ、島の中心集落は東部にある大浦になり、松山市役所中島支所・小中高等学校や小規模な商店街・病院などがあります。また大浦港を拠点に、島一周する路線とトンネル経由で島を横断する路線のバスが運行しています。

瀬戸内特有の温暖寡雨な気候は「この島で作れない柑橘はない」といわれる程であり、温州みかんをはじめ伊予柑・カラマンダリン・紅まどんな・せとかといった様々な品種が栽培されています。燦々と降り注ぐ太陽と瀬戸の吹き抜ける潮風、島の斜面地を活かした栽培は、甘くて濃厚な柑橘を育て、時期には島全体がミカン色に染まるほどです。玉ねぎやべにふうき・レモンなど、近年では他の生産にも力を入れています。また海の幸にも恵まれ、鯛・カレイ・メバル・チヌなど釣り好きのスポットとしても人気があり、白浜広がる美しい姫ヶ浜海水浴場やアミアゲビーチなど海水浴客で賑わいます。
島には宿泊施設も数件あり、飲食店(定食・焼肉・お好み焼き・居酒屋など)や生活用品・食品などの店もあり、レンタサイクルで島を巡る(約3時間)こともできます。

歴史は古く、島内から縄文時代の土器片が出土するなど先史時代まで遡り、また奈良時代には法隆寺の寺領となっていたようです。その後、平安時代後期に藤原親賢が開発領主となり「忽那氏」と称し、忽那水軍として瀬戸内海で勢力を誇ります。最初に築いた本山城をはじめ、泰ノ山城・黒岩城は忽那水軍の拠点でしたが、1585年に豊臣秀吉の四国平定の際に小早川隆景に攻め落とされました。
標高106mの本山にある本山城跡は、山の急斜面を活用して南に伸びる連郭構造で、東北方の守護神として建設したと言われる「文中の板碑」が中島中学校近くにあり貴重なものです。また泰ノ山城跡には、腰曲輪(砦などの囲い)や土砂に埋もれた井戸の形が残っています。安山岩からなる円錐状の泰ノ山(標高289m)は、山頂付近までは舗装され車で上ることができ、大浦・睦月島・釣島・興居島などを眼下に見張らせる絶景のスポットとなっています。近年ボランティア活動による登山道整備がなされ登れるようになった黒岩城跡は、石垣がその面影を残し本山城跡や泰ノ山城跡が見えます。

「中島(嶋)」と呼ばれるようになったのは室町時代始め頃で、奈良時代は「骨奈嶋」、平安時代には「忽那島(嶋)」と呼ばれていたと記されています。また島内に大洲藩領・天領(大洲藩預領)・松山藩領が混在していた江戸時代は、大洲藩側は「忽那島」と呼ぶ一方、松山藩側は「風早島」と呼んでいたようです。

このような歴史がある島には見所が多くあり、中島や忽那水軍の歴史を味わえる桑名神社・忽那義範公表忠碑・懐古館・4年毎に開帳される忽那義範ゆかりの西方山毘沙門堂などがあります。また毎年10月初旬にある「やっこ振り」は、九州に配流される際に宇和間に立ち寄った菅原道真を村人が慰めるために行ったのが始まりと言われています。

そして島における夏の風物詩である「トライアスロン中島大会」(毎年8月下旬頃)は、スイム(1.5km)・バイク(40km)・ラン(10km)で鉄人達の熱い戦いが繰り広げられます。選手は前日にある前夜祭から参加し島に宿泊、地元の人との交流を図ることも目的の1つであり、当日も多くの島人が沿道から声援を送るなど島全体で盛り上がります。

また近年、都市部から若者が移住し農産物の生産・販売など地域活性化を図りながら、音楽を通じたPR活動を行っている「NPO法人 農音」が様々な活動を行っています。他にも様々なイベントを行ったり、島で生産した安心安全な柑橘類の販売などを行っています。

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